「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25

主は、盲目なら罪は無かったが、「見える」と言うから「罪は残る」と言っている。安息日に病気の手当をするなら、仕事と見なされ、パリサイ人たちは、主が律法を守らないと断罪した。「安息日を守らないのだから、神から出たのではない」と。彼らは神の言葉でなく、人の言い伝えの方を大切にした。

 

そのため盲目であり、神の言葉が見えず、わからない。主は「わたしは、さばきのために来た。見えない者が見えるように、見える者が盲目に」と。パリサイ人は「では、私たちは盲目なのか」と不快感をあらわにした。もし、そこで彼らが「見えない者です」と言えたなら、大きな恵みと祝福にあずかれたろう。

 

しかし彼らは、自分たちは見えると思い、盲目である事を認めず、自らの間違いを認めなかった。私たちはどうだろう。目に見えない世界を見るために、まず自分が盲目である事を知る必要がある。そして自分は見えていない者だと認める事だ。それはへりくだらなければならず、これが最も難しい。

 

認めるためには信仰が要る。「見えていません」と認めた時に、主が見えるようにして下さる。「目の見えない者が見えるようになり」と。主ご自身が盲人に近づかれて「信じるか」と問われ「その方を知りたい」と彼が願った時に、「あなたと話しているのがそれだ」とご自身を現された。すると「信じます」と言い、主は、彼の霊の目も開いて下さった。

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見えていると思う高ぶりが目を覆ってくる。主に救われ義とされた者がいつの間にか自分を主張し主の恵みを無駄にしてしまう。霊の目を日々新たに開らかれ、大切なものが見えるようになりたい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係