「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です」ヨハネ3:28

ヨハネの弟子たちが、ユダヤ人ときよめについて議論した。その時、ヨハネの弟子たちは痛い所を突かれた。それでヨハネのもとへ来て、主イエスがバプテスマを授けておられ、皆がイエスの方へ行くと、告げた。弟子たちには党派心や、やっかみがあったようだ。

 

主イエスが人々に好かれ、どんどん人気を博する事に、自分たちの師と比較して、いら立ち、嫉妬した。人との比較は、必ず劣等感と優越感を生み出し、上がったり下がったり、その間を行ったり来たりする。優越感があるのは、底に劣等感があるからであり、又、劣等感があるから、優越感に浸りたい。

 

それらは表裏一体だ。その根は高慢から来ている。議論をして、彼らは、イラ立った気持ちを、そのまま師のヨハネに持って行った。「みな、あの方の方へ行く」と、まるでヨハネを責め、師をあおるかのようだ。ヨハネの方が、更に嫉妬心が生じるかも知れないのに、しかしそうではなかった。

 

ヨハネは心底へりくだっていた。「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と。へりくだっている人を、人もサタンも、どうにも出来ない。成功も、栄誉も、人気もすべては主から来る。その事を受け止め、認める時に、嫉妬や、競争、劣等感から解放され、守られる。

 

賜物が違い、使命が違い、用いられ方が違い、一人一人が皆、違う。違うのだから比較ができず、意味をなさない。すべての主権者は主だ。主を仰ぎ、主から与えられるものを受ける時に、人は全く関係なく、自分自身は真の満足と平安がある。

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人との比較でイラ立ったりさみしく思ってしまう自分をなかなか認められない。素直に認める時に、主が与えてくださる真の満足と平安は何一つ変わらないと気づく。謙遜になりいつも感謝していたい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係