イスラエルの民は、主に向かって心から叫ぶことをせず、ただ、床の上で泣きわめいていると。主は、どんな中も民を愛し、見守り続けておられるにかかわらず、民は主に向かわない。そして自分に都合の良い時だけ、利得を求めて、主に近づいた。
「彼らは、穀物と新しいぶどう酒のためには集まって来るが、わたしからは離れ去る」。主には関心がなく、主を利用してでも、穀物や新しいぶどう酒が欲しい。自らの欲を満たしたい。しかし主は、何よりも愛する民の心を求めておられ、主に向かい、主を知ることを求めておられる。
「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」と。私たちはどうだろう。何か困難が起きた時、主に向かうのでなく、自分の力で、何とかしようとしてしまう。頭は素早く巡り、あれやこれやと人間的な方法を画策する。
人に相談したり、様々な機関を回ったり、動き回り、あらゆる方法をやってみる。だが、主に向かうこと、主に叫び求めることは回避する。まさに主が求めておられる事、必要な事は、主に叫び求めることだ。「わたしからは離れ去る」とあり、主以外のものは、何やかや求めるのに、主には求めない。
私たちはどうだろう。主に向いて、主に求めることをせず、ただ床の上で泣きわめき、自己憐憫に陥っているだろうか。主は、何よりも主に向かい、主を知ることを喜ばれる。主に向き、主と交わろう。主に心の内を語り、主の御声に耳を傾けよう。御霊の喜びが来る。
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主に祈りながらも具体的には自分が動いてしまうからいつまでも思い煩いは消えないのではないだろうか。主ご自身に向き、主ご自身を求める生活をしよう。主が応えてくださる。