ヤコブは、兄エサウと父をだまして、祝福を奪い取った。欲しいものを手に入れる、ずる賢い人物であった。だが主は、そんな自我の強いヤコブを愛しておられた。その自己中心を砕くために、主はヤコブを訓練された。ヤコブを、更に狡猾な伯父ラバンのもとに置かれた。ヤコブを砕くためであった。
私たちの前に置かれる対人関係は、主の配剤だ。難しい、苦しい対人関係を通して、私たちを砕かれ、練られる。兄をだましたヤコブは、ラバンにだまされる事になる。蒔いたものは刈り取る事になる。ラケルとの結婚のために7年働いたが、レアを与えられ、更に7年働く事になる。つらく苦しい厳しい日々であった。
ラバンのもとで多くの訓練を受ける。やがて神の時が来て、故郷に帰るように示される。神が定められたなら、ラバンも止める事が出来ない。帰郷に際し、兄の怒りを恐れて足がすくみ、恐怖で震えた。皆殺しにされるかも知れない。恐怖がどうにもならない。
ヤボクの渡しで神の取り扱いを受ける。御使いと格闘し、もものつがいをはずされた。一番力のあるその所を砕かれた。もう自力では歩けず、杖にすがりついた。つまり、神に頼らなければ、一歩も歩めない。肉の知恵と力を駆使して生きて来たヤコブが、神無くして一歩も歩めないようにされた。
今、私たちも取り扱いの中にあるなら、神の恵みによって生きる者に変えられ、大きな祝福に入れられる。
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肉はどこまでも狡猾だ。主が取り扱って下さらなければ、自分が自分に欺かれてしまう。主は、キリストのかたちに変えようと、目の前に様々な事柄を置いて、砕いて下さる。自分視点でなく、神視点で見る時、あの事も、この事も、と気づかせて下さる。