「・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現されることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです」ピリピ1:20

時に、主のみ思いと、私たちの思いが大きく異なる事がある。思いにずれがある。主は、「求めよ。そうすれば与えられる」と求めるように言っておられる。私たちの祈りを喜んで下さり、どんな小さな祈りも、耳を傾け、聞いて下さっている。

 

だが、祈りが答えられるとは、自分の都合の良いようになる事ではない。私たちは自分の思い通りにしたいとの、非常に強い思いがある。自分の思い通りに、祈りを叶えて欲しい。しかし、時に主のみ思いは違っている。

 

例えば、私たちは、生まれつき身体が不自由なら、自由に動くことが、いやしであり、祈りの答えだと思ってしまう。しかしもし、不自由であっても、御霊の平安が与えられ、生き生きと感謝の人生を送れるようにされる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞かれるとは、自分の思い通りではないかも知れない。

 

だがもし、自分の思い通りではない道だが、主の栄光が現れるなら、どうだろう。私たちの目標は、どんな時にも、私たちを通して、主の栄光が現れることだ。パウロは、トゲが取られるよう、3度も祈ったが、つまり徹底的に祈ったが、主は、それがある方がより栄光が現れると言われた。

 

ある人はトゲが取られ、ある人はそのまま残される。どちらも主の栄光のためだ。私たちの「なぜ?なぜ?」と、不満と愚痴の部分を今一度、御霊の光に照らされて、受け取り直そう。主の栄光のためではないだろうか。

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受け入れがたい現実もそれが主の取り扱いなら、時間がかかっても与えられた御心を受け取って喜びたい。主は祝福してくださる。私の身によって主の栄光を現すとは、主にあっていつも喜んでいる事ではないだろうか。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係