「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました」詩篇31:5

幼児が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、飴を握りしめ、手が出ないと泣き叫んでいる。時々目にする光景だ。飴を放すと、手が出るよと言うが、嫌だと泣くばかり。こっけいな光景だが、私たちの霊的生活に似ている。心がザラつき、悶々と苦しいだろうか。

 

その時は、何かを握りしめている。憎しみや妬みか、裁く心か、赦せない思いか、思い通りにしたい事柄だろうか。憎しみや妬みや裁きは、自分がつらい。平安も喜びも無い。飴を手放すなら、ボックスから手が出る。憎しみや妬みを手放す時、心は自由にされ、喜びと平安が戻る。

 

しかし固い自我は、決して放そうとしない。苦しいのに、憎んでいたいし、妬んでいたい。罪の性質だ。「出来ません」「したく無い者です」と認める事から始まる。ある人が子供の難病を、どうしても受け入れられないでいた。

 

「なぜ?」「どうして?」「自分の子が?」と涙は溢れ、グルグル思いは回り、苦しみ、つぶやき、主に対して反抗している自分がいた。同年齢の子どもを見れば涙が出た。悶々の心は苦しくてたまらず、とうとう限界に達し、ギブアップした。もう瀬戸際で、明け渡さざるを得なかった。

 

苦しみの余り、自分自身も子どもも将来も、不安も恐れも、何もかもを明け渡した。その時、状況は変わらず、同じなのに、心に生まれて初めての、深い安堵と平安が臨んだ。委ねられないで握っているなら、その事を主に告げて、ありのままの心を祈ろう。

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ひとつ、ひとつ主に委ねて御心を信頼し受け入れていきたい。自分の思い通りという執着から解放される。試練と共に置かれて在る慰めや恵みに気づける。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係