種蒔きのたとえで、道ばたに落ちた種が出てくる。種である神の言葉が、道ばたに落ちた。もし大切な種なら、落ちたまま放っておくだろうか。もし財布や貴重品が落ちたらどうだろう。放置するだろうか。そんな事はしない。放ったままなら、それは捨ててもよい物、どうでもよい物という事になる。
道ばたの心は、主の言葉をそんなに気に留めていない事になる。だから「悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行く」と。悪魔が来て、信じて救われることがないように、御言葉を持ち去ってしまう。心に入らない事は、聞かなかった事と同じになってしまう。
種が無いなら、実を結ぶ事は有り得ず、自分が変えられる事もない。エジプトの奇跡の時に、主が、激しい雹を降らせるから、今すぐ野にあるすべてのものを避難させよ、死んでしまうからと言われた。その時、御言葉を畏れた者は、その通りに家に避難させた。
しかし主の言葉を心に留めなかった者は、しもべや家畜をそのまま野に残した。主の言葉を畏れる時、御言葉を受け取り、行動となって表れる。私たちの心の態度はどうだろう。御言葉をへりくだって大切に受け取り、尊んでいるだろうか、それとも軽んじているだろうか。
主の言葉には力がある。愛があり、真実があり、御言葉は、神のみわざを成し遂げて行く。聞く耳のある者は聞けと言われる。祈って、御霊に助けられて、御言葉を真剣に聞こう。そして示された御言葉を実行して行く時、豊かな実を結ぶ。
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御言葉に従おうと向き合うなら自分が変えられ、不思議に状況も変えられる。実を結べるよう主が助けてくださるからだ。御言葉の種を大切に心に受け取ろう。主が豊かに耕してくださる。