ハバクク書によると「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と。
何という悲惨な状況だろう。花は咲かず、果物は収穫なく、畑は食物の無い不作、家畜も死滅で全滅、見渡す限りの恐るべき不毛地帯だ。もう見えるところ絶望状態だ。だが状況はそのようでも「主にあって」「救いの神にあって」喜ぶことができると。どんな中でも、喜べると。
私たちは畑は豊作、受験は合格、商売は繁盛、家内安全なら喜べる。しかし、パウロやハバククが喜ぶのは、「状況にあって」ではなく「主にあって」であった。状況にある喜びなら、良い時も、悪い時もあるので、常にアップダウンしていなくてはならない。「いつも」喜ぶ事など不可能だ。
しかし状況でなく、主を見る時に、主は必ず最善をして下さる、必要は与えられる、万事益となる、主は生きておられるので、御言葉により導きや指針が与えられる。常にどんな時でも希望がある。痛い所、苦しい所を誰しもが、確かに通るが、そこで新たに主に出会い、主を経験して行ける。
私たちにとっての喜びとは、単に問題の無い平穏な生活でなく、更に主を知る事、主の愛を、真実を知る事ではないだろうか。苦しい状況の中でこそ、主の力、支え、励ましを現実に経験して行ける。そこに御霊の喜びがある。
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喜びが外からのものでしか得られないなら、畑は豊作、受験は合格も手にすれば小さな恵みに見えてしまう。喜びは内におられる御霊にあって得られ、希望は主からくる。主にあって喜んでいよう。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係