「・・まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません」詩篇39:6

ダビデは、苦しみの中で「なぜ? どうして?自分がこんな目に会うのか」との思いでいっぱいだった。しかし舌で罪を犯さないようにと、口に口輪をはめた。だが黙っていると、痛みは激しくなって、今にも爆発しそうだった。そこで自分の舌で、人に向かってでなく、主に自分の思いを吐き出した。気持ちを洗いざらい告げた。

 

人生はいかにはかなくて、虚しいかと。どんなに盛んであっても、全く虚しいと。そんな虚しい人生で、何を待ち望み、何を望めばよいのか。そして祈りの中で、見上げた時に、主を見いだした。「主よ。私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と。

 

そして、ことごとくを祈りに持って行った後、「私は黙し、口を開きません」と言っている。それは罪を犯すから、口を開かないのでなく、「あなたがそうなさったからです」と。見える所でなく、自分の思いでなく、神視点に立ち、信仰に立っている。

 

神の主権を認め、神のご計画がある事を認め、それを受け入れている。人から受ける苦しみも、信仰によって、神からのものと受け止めた。苦しみの中にも、そこに主を認める時に、「あなたのむち」「あなたの手に打たれ」と、主を見いだして行く。

 

するとそこには意味があり、むちも、打たれる事も、御手により豊かな祝福へと導かれて行く。今、起きている事を「あなたがそうなさった」と受け止めて行こう。その時、「私の望み、それはあなたです」と、ますます主に向かって行ける。

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主は私たちよりも私たちの必要を知っておられる。立ち騒がず、ここに主を認めて受け止められるように祈りたい。今わからなくても主の最善がある。落ち着いた強い信仰を求めよう。

  

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係