「すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た・・彼はペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた」 使徒3:3

富は、私たちに快適さを、幸せを与えるように見える。何でも欲しい物が手に入り、したい事ができる。夢が実現できるなら、それは心地よいと。だがどれだけ富を所有しても、人の心に決して満足を与えることはない。ザアカイは富に、幸せと喜びを求めたが、裏切られた。

 

又、富は幾ら得ても満足する事がない。常に、不満足であり、もっと欲しい、更に欲しい、これで充分という事がない。これが「貪欲」だ。貪欲は底無しであり、身を滅ぼしてしまう。ペテロとヨハネが宮に入る時に、お金を求める男がいた。その男にペテロは、はっきりと「金銀は私には無い」と言った。私たちは何を求めているだろう。何を求めて御言葉に向かうだろう。

 

実はこの男のように、自分の欲しいもの、都合良いものを求めているのかも知れない。「自分がこの世で成功すること」「人から人格者と思われたい」「自己実現のため」「充足感を、生きがいを得た」有形無形の金銀だろうか。しばしば自分が求めているものと、神が意図し、与えて下さるものとが異なる。私たちは方向違いに求めてしまう。

 

「しかし私にあるものを上げよう」私たちが欲しいものでなく、主が私のために、最も良いものを下さる。「イエス・キリストの名によって歩く」これを与えて下さり、これこそが彼にとって最も必要で最善のものだ。私たちも同様だ。主との交わりの中で、主を実感しつつ、賛美と喜びを下さる。そして、いつも私たちのための最善を与えて下さる。

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ひとつ手に入れば、次に欲しいものを探し始める。足ることのない欲望が生きる力のようにこの世は言うが、流されず主ご自身を喜び、本当の最善のものを見極め、感謝する者になりたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係