「しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった」 出エジプト8:32

出エジプト記で、民の救出のために、主は次々と奇跡を起こし、モーセは、そのつどパロに民を行かせるよう、要求し迫った。主の超自然のみわざにより、厳しい苦しみが臨むと、パロは「私は罪を犯した」と言う。「私と私の民は悪者だ」「私の罪を赦してくれ」「私のために祈ってくれ」と。

 

一見悔い改めのように見えるが、その災いがおさまり、ひと息つくと、即、再び頑なな姿に戻る。これは、それらしい言葉を口にするが、心では悔い改めていない。真の悔い改めなら、必ず実を結ぶ。主が、しるしを行われるのは「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」だ。

 

しかしパロにとっては、様々なしるしは、主を知る事にはならず、脅しみたいなものだった。だからその脅しが無くなれば、再び強情な本性に戻った。私たちはどうだろう。もし高ぶっていたなら、主はへりくだるように、主に頼るようにと、問題を送られる。これは主の愛だ。自分の道を行くのを放っておかれる方が、むしろ悲惨だ。

 

しかし主の愛による意図がある、その苦しみをパロのごとく、単に脅しと取るなら、確かに痛いので神妙になるのだが、その苦しみが去ると元に戻り、そのままだ。問題が起きても、自分サイドの事は考えず、相手が悪いとしか見えない。

 

それなら成長が無く、自分が変わる事もなく、実を結ぶ事がない。しかし、御霊に導かれた悔い改めは必ず実を結んで行く。砕かれた、悔いた心を、主は軽しめられず、豊かに祝福し、御霊により豊かな実を結ばせて下さる。主の栄光が現されて行く。

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自分を変えたくないプライドが主の御心も恵みも見えなくしてしまう。へりくだって主から学ばなければ何もわからない者だ。心の貧しさを覚え、いつも主の御手に自分を委ねていたい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係