「自分がいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら 引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマ リヤ人であった」ルカ17:15 

10人のらい病人がいやされた。当時らい病は、不治の病で人々から隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱えねばならなかった。社会からのけ者にされ、希望もなく、絶望的な人生だったろう。主が、らい病をいやされた噂を耳にし、彼らは主にすがった。らい病人は人前に出られない。遠く離れた所から声を張り上げて「あわれんで下さい」と主に求めた。

 

遠くから力の限りの大声で、必死に願った。答えてもらえない相手なら、はなから求めはしない。その切なる求めに、主は答え「行きなさい。自分を祭司に見せなさい」と。いやしを判断をするのは祭司だった。しかしその時は、まだ直っていない。らい病のままだ。そのままで、言われた通りに、祭司のもとへ出発する。

 

すると主の言葉を信じて行動した時に、途中でらい病がいやされた。普通ならいやされてから、祭司のもとへ行くが、彼らはみ言葉を受け取るや、出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰に答えられて、途中できよめられた。そして10人の内、1人の異邦人だけが、主に感謝するために戻って来た。9人はユダヤ人だ。いやしが叶えば、本音ではもう主に用はなかった。

 

いやしだけが目的だった。それを得るや、大喜びで世に帰り、主のもとを去った。しかしサマリヤ人は、主のもとに戻り、御前にひれ伏した。その時、いやし主との関係に立ち返ることができた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」この信仰が彼を救った。感謝する時、主をあがめることになる。

 

・・・・・・・・・・・・

生けるしかばねのような状態がいやされ、天にも上る心地だったろう。いやし主に向かずに、大喜びで自分の道に向かってしまう。試練の時は必死に主に願うが、解決するとどうだろう。主に感謝を献げる事について、新たにされたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係