「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」マタイ18:33 

王が、Aに6000億を貸していた。清算の時が来たが、Aは返済ができず、ひたすら懇願するので、王はかわいそうに思い、赦してやった。王は、Aの6000億の借金を全額免除した。そのAが出て行き、Bに出会った。AはBに100万貸していた。

 

ところがBも100万を返済できず、Aに懇願した。返すから、もう少し待ってくれと。しかしAは決して赦さず、Bを牢に投げ入れた。心を痛めた仲間は、事の次第を王に報告した。すると王は怒り、Aを借金を全額返すまで、投獄した。せっかく免除された莫大な借金が、自分に負債のある者を赦さなかったばかりに、また戻って来た。

 

免除された6000億は、そのままでなく、王が肩代わりし、その負債を負う事になるのだ。何というあわれみだろう。自分は測り知れない大きなあわれみを受けているのに、他者をあわれむ事ができない。これが人間の姿であり、罪の性質だ。自分は主に溢れるばかりに赦されているのに、人を赦す事ができない。

 

二つの道がある。決して自分を変えないで、誰でも皆そうだと、恨みと憎しみを持ったまま生きて行くか。そうではなく、自分が変えられて、主に喜ばれる道、栄光が現される道へ向かうか。今、岐路にいるだろうか。自分にはできない。自分の力では不可能だ。

 

しかし、主に不可能は一つも無い。主には出来る。主は、赦す力を与えて下さる。このままでいるか、信仰に前進するのか。自らの選択にかかっている。ありのままを主に祈って行こう。そうする時、主が働き、導き、変えて行って下さる。

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確かな赦しを受け取っていながら、自分の怒りに流されてしまいそうなとき、主に明け渡していこう。どれ程の罪を赦されているか。主の喜ばれる道を進みたい。

 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係