「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」Ⅰコリント 13:1

ある時、青年たちの交わりで、お茶をしつつ、楽しいお喋りしていた。その中で、どうでも良いような事で、議論になってしまった。議論になると、どうしても自分の正しさを主張したい。そして負けるのは悔しく、相手を打ち負かしたい誘惑がくる。何だか横道にそれて行ってしまった。気まずい空気の中、交わり会は終了し、別れた。

 

帰宅するが、何だかもやもやして、心に全く平安が無い。それで主のもとへ行き、ありのままの心を祈った。そしてテモテⅠを読んでいた時に、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています」が心に刺さった。クリスチャンの目標は愛であるのに、自分は、相手を打ち負かそうと、自分が上に立とうとするばかりで、自分が、自分が、の自己本位な姿を見せられた。

 

愛などと、ほど遠い姿であった。「ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り・・」と全くその通りであった。目当てを見失っていたし、有益で建設的なな話し合いでなく、どうでもよい事柄で、まさに無益で、無意味な議論であった。「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように命じてください・・論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものではない」と。

 

全くその通りだった。悔い改めて、心を新たにされた。そしてこの取り扱いを青年たちに証しし、皆で、教えられ、主を誉め讃えることとなった。失敗をも、すべてが益とされることも感謝だった。 

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主とみ言葉から目が離れると、肉で生きてしまう。自己中心となり、愛から、かけ離れてしまう。自分が、自分を、と自分、自分になる。しかし主を仰ぎ、祈りつつ御霊に導かれて歩むと、心に喜びが来て、自分の力ではなく、平安な歩みができる。、

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係