「その名はインマヌエルと呼ばれる(訳すと、神は私たちとともに おられる、という意味である」マタイ1:23

ある時、主は、弟子たちを強いて船に乗り込ませられた。つまり、強制的に湖に送り出され、弟子たちは沖へこぎ出した。その途上で、嵐となり、湖は波と風で荒れれ狂った。何も見えない、夜の真っ暗闇の中での嵐は、どんなに恐怖であったことだろう。信仰人生において、嵐には出会う。雨も風も洪水も、又、日照りも、飢饉も来る。

 

人生には順境と逆境があり、順境は来るが、逆境も必ず来る。それは世の人々と同じだ。しかし世の人とどこが違うのか。その嵐のまっただ中に、来て下さる主がおられる! 必ず嵐に会うが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」との主がおられる。何と心強く、力強いことだろう。

 

私たちが、試練のまっただ中で、不安と恐れの中にいる時、又、つらさと苦しみの中にいる時、孤独の中にいる時、「わたしだ。恐れることはない」と言われる主がおられる。その主は、荒れ狂う湖の上を平然と歩いておられる。私たちの問題や悩み、困難の上を歩いておられる。

 

ある人が若い頃、夜遅い帰宅となった。電灯も無く、うっそうとした森を通るのだが、真っ暗闇の中、もう足がすくんでしまい歩けない。固まってしまい、どうしても足が出ない。「神様!」と叫んだ。その時「主共にいます」の言葉が、光のように来て、その場がパッと明るくなったように感じ、通り抜ける事が出来た。私たちの平安は、問題が無い事ではなく、どんな時にも、主が共におられることだ。ここに全き平安がある。

 

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生まれつきの性質は、問題が無いこと、平穏無事が善との価値観が根深いが、そうではなく、「主が共にいます」大きな恵みで救いだ。問題が無い事でなく、「世の終わりまで、いつも共にいて下さる主」。これを与えて下さっている。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係