「・・アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった」ヨシュア7:1

約束の地へ入ったヨシュアと民は、主の奇跡によりエリコの戦いに勝利した。その噂は周囲にあまねく広まった。次にアイへの偵察隊を遣わし、戻ると「二、三千人で大丈夫」と報告した。そのため三千人を戦いに出したが、想定外の散々な敗北だった。

 

民の心はしなえ水のようになった。勝利を疑わなかっただけに、大変な衝撃であり、動揺であった。主の大きな奇跡でヨルダン川を渡り、エリコ城壁崩壊の大勝利を目の当たりにし、勝利に次ぐ勝利だ。大いなる神が民と共におられる、周囲の民もそれを恐れた。

 

その事こそがヨシュアの拠って立つところで、しかしこの敗北の事実が、それらをなし崩しにしてしまう。敵の前で、主の御名は、この敗北はどうなるのか。敵は恐れなくなるだろう。ヨシュアは「なぜですか」とひれ伏した。「大いなる御名のために何をされるのか」と。

 

だが、「大いなる御名」こそが、この敗北を与えられた。全能の主は、同時に聖い主であった。聖さに関心を持たれ、聖さのゆえ罪のあるところに働かれない。聖くない所では、むしろ敗北の方が、主の栄光が現れる。妨げは主の側ではなく、民の側にあった。主との間が正しければ、アイでも勝利していた。

 

主の示しによりアカンの罪が発覚した。民から罪が除かれた時、再びアイに上り、完全勝利した。私たちも罪は主との間の妨げとなり平安を失う。主の血潮がある。すぐ御前に行き告白しよう。主は赦し回復して下さる。平安が戻り罪赦された喜びが溢れ、主の愛を知って行ける。

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罪を犯したままでいると必ず平安を見失い、明日の心配が押し寄せてくる。起きる全ての事に主の御手があり、主は御心から離れていると気づかせてくださる。感謝だ。悔い改められる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係