「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17

サウルとダビデはどちらも王位にいた。しかし二人の最後は大きくかけ離れたものとなった。双方共、罪を犯したが、サウル主から退けられ、ダビデは悔い改め、祝福へと進んだ。ダビデはバテシバとの姦淫とウリヤ殺害の二重の罪を犯し、サウルは、祭司が献げるべきいけにえを自らが献げ、またアマレクを聖絶せよとの命令に従わなかった。

 

ダビデはナタンから罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯した」告白し、サウルはサムエルから罪を指摘された時に「私は罪を犯しました」と言った。どちらも言葉は同じだが、ダビデは「主に対する罪」と認め、心底悔い改めたが、サウルは「しかし私の面目を立てて下さい」と「面目を立て」の方が本心であった。

 

サウルは、事がまずいと思っただけで、主に対しての悔い改めは無かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも私の目の前にあり」「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行い」と、逃げ隠れしなかった。サウルは罪に向き合う事なく、言い訳に終始し、更に兵士と民のせいにした。

 

大事なものは自分のプライド、名誉だった。サウルの最期は悲惨だった。ダビデは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」と罪の赦しを受けた。ダビデは罪を犯さなかったのでなく、どちらも、罪を犯したが、結末は天と地ほどに違ってしまった。

 

・・・・・・・・・・・

サウルは表向きは神であり、一見悔い改めに見えるが、そうでないことが「私の面目を立ててほしい」でわかる。御霊に導かれた悔い改めは、ただただ自分の罪が見えて、悔いくずおれる。自分をどうこうも、人も無い。そして心底の赦しを受け取り、平安にされる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係