「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエルをエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10

モーセは長年、何も無い荒野で羊を飼っていたが、ある日突然、主から召しを受ける。「わたしはあなたをパロのもとに遣わす」と。イスラエルをエジプトから連れ出せと。突如の事に、モーセは「なぜ私が?」と思ったろう。「私はいったい何者なのでしょう。民をエジプトから連れ出さなければならないとは」と。

 

何で一介の羊飼いの自分が、そんなとんでも無い大それた事をしなければならないのか。モーセはもう80歳であり、又、以前王子であった時に、自分こそがと、民を救出しようとして失敗している。この老人に今更何を? 今の自分にはもう何の能力も無い。地位も力も富も人脈もない。

 

しかし主は、だからこそふさわしいとばかりに、尻込みするモーセに、「わたしがが共にいる」と約束され、たたみ込むように説得して行かれる。「わたしが共にいる」この事が「しるし」だと。「しるし」とは、証拠であり、保証だ。これ以上の保証がどこにあろう。これが現実であるとは、何と力強い事だろう。

 

モーセは、民をエジプトから救い出す事、これが主からの使命であり、このために生まれて来た。主はモーセを用いられた。私たちも同様だ。「わたしがあなたを遣わす」の通り、一人一人に主からの使命が与えられている。

 

モーセと同じく、私は一体何者と思ってしまうが「わたしが共にいる」との何よりも力強い保証がある。自分の力や知恵にはいっさいよらない。遣わされた場で、主により用いていだだこう。

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主が行けと遣わされるなら必ずそこで必要な助けは与えられる。そして責任を果たすことができる。主に助けられ用いてもらおう。自分ではなく主を信じ応えていこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係