「・・神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびきよせられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:13

「試み」という元の言葉は「試練」と「誘惑」の両方に使われている。「試練」は、神からのもので、「誘惑」は、サタンからのものだ。神は、決して悪に誘惑される事の無い方で、誰をも誘惑される事はない。神からの誘惑は無い。神は、ご自分の子どもに試練を与えられる。神からの「試練」は受け入れて、耐え抜く時に、いのちの冠を受ける。

 

逃げずに試練に向き合うなら、必ず成長する。試練は痛くつらいが、良いものだ。反対に、サタンからの「誘惑」は決して受け入れてはならない。拒否し、立ち向かうべきものだ。それを受け入れる時、罪を犯してしまう。だから主が「主の祈り」で、こう祈りなさいと言われたように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈る事は大切だ。

 

誘惑から守られるように、日ごとに祈る必要がある。サタンの誘惑の巧妙さは、物事が順調に行っている時に来る事だ。試練の時は、むしろ主に拠りすがり、主に頼るので、主が近い。何の問題もなく、平穏無事で、万事うまく行っている時に、人は油断する。主に頼らずとも、やって行けるので、祈る事も怠ってしまう。

 

頼らずとも、問題なく自分でやって行けると思ってしまう。ダビデが姦淫の罪を犯した時にも、油断があった。部下が命がけで戦っている時に、夕方に起き出すという怠惰な生活をしていた。サタンにつけ込まれた。誘惑が来た時に、主を仰ぎ、祈れば良かった。しかしる事を怠った。順調の時こそ、身を引き締め、神に感謝を献げ、神を喜び、恵みを数え、更に神に近く歩もう。

 

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「試みに会わせないで~」との祈りは大切だ。サタンが絶えず誘惑してくるし、自分の内には肉があるからだ。肉はサタンの巧妙な誘惑と合致してしまう。欲のあるところに来るので、罪にいざなわれてしまう。祈りには力がある。祈っていよう。

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係