「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」 詩篇6:9

ある人が対人関係で、どうしてもぎくしゃくする相手がいた。相手の言葉や態度に傷つき、嫌な思いがあり、恨みが募ってしまう。又、そんな自分に自己嫌悪にも陥る。つらい中、そんなこんなをあるがまま、主に助けを求めて祈り続けていた。そんな時に、何と自分も相手と同じ失敗を、他の人にしてしまったのだ。

 

それは大事に至らずに済んだが、主の取り扱いだとわかった。自分も罪人で、自我が強く、自己中心に、肉で行動してしまう事を思い知らされた。相手を責めている自分も、同じ者だと砕かれた。そして別の人に相談を受ける機会があったが、それが複雑な生い立ちに関するものだった。

 

心も屈折してしまいそうな、厳しい過酷な状況に言葉が無かった。その相談者に愛情を感じ、祈りの重荷が与えられた。祈って行きたいと思えた。そんな時にふと、嫌な相手から垣間聞いた生い立ちが重なった。その時、相手への印象が変わった。

 

大変な所を通って来た事に思いが至り、思いを馳せた。これら二つの事が次々と起きて、相手への見方が変えられた事に気づいた。自分も恥ずかしい肉の失敗をした事、厳しい生い立ちに思いが至った事、まさにその時に相手を受け入れる事ができた。

 

これこそが「祈り」の答えで、わざである事を経験し、祈りの力を見せられた。主は思いも、状況も支配しつつ、祈りに答えて下さる。祈って行こう。「しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた」。

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裁く自分の内にも罪があると、気づくことも自分でできない者だ。切実に祈る祈りを主は聞いて教えてくださる。祈りはいつも受け入れられている。主の答えを見張りよく悟っていきたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係