「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」ヘブル4:7

主は、モーセによりイスラエルの民に、乳と蜜の流れる地へ導くと約束された。民はその約束を何度も聞いた。しかし残念な事に、聞いた言葉が信仰によって結びつけられず、民にとって益にならなかった。せっかく苦難のエジプトを出たのに、カナンの偵察から斥候たちが戻った時に、不信仰に陥った。

 

主が与えると約束されているのに、敵に滅ぼされるから上って行けないと。その上、エジプトで死んでいたらよかった、この荒野で死んだ方がましだと、泣き明かした。出エジプトを果たしたのに、不信仰のゆえに、約束の地カナンに入れなかった。主の素晴らしい約束も、信仰に結びつけなければ、何の益もない事になる。

 

私たちはどうだろう。どのように御言葉を聞いているだろう。漠然とぼんやり聞いているだろうか。右から左へ流れているだろうか。種蒔きのたとえで、そうであれば、サタンが御言葉を奪い取ってしまうと言っている。御言葉の種が心に植わらなければ、実を結びようがない。それなら、聞かなかった事と同じになってしまう。

 

又、聞いた御言葉と目に見える状況が相反する場合はどうだろう。民は目に見える所に怯えて、不信仰に陥り、従えなかった。ペテロは、主から「深みにこぎ出して、魚をとれ」と言われた時に、状況的には漁は不可能で、常識的にも魚が取れるなど、有り得ない状況だったが「でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」と主の言葉の方に従った。すると大漁だった。今、御言葉を示されているなら、信仰に結びつけて、一歩踏み出し従おう。

 

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信仰は、具体的な行動となって現れる。主の導きが来た時に、一歩従ってみよう。意志を向けた時に、力は主から来る。主の助けが臨む。従って良かったと、平安に包まれる。従って行く時に、自分が変えられ、信仰に成長して行ける。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係