主は、今まで愛し導いて来た弟子たちに、その愛を残るところなく、最後まで示された。自分のものを「極みまで愛され」「愛し通された」。それで、主は、手ぬぐいを腰にまとわれ、かがんで弟子たちの足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏切るであろう事を知った上で、ユダの足を洗われた。ユダをも最後まで愛し通された。
主が捕らえられた時に、ペテロも主を裏切った。3度も誓い「あんな人を知らない」と。そしてペテロの裏切りは有名だが、弟子たちも皆、イエスを裏切り、見捨てて逃げ去った。これから起こるであろう事態もわかった上で、主は皆の足を洗われ、なおかつ極みまで愛された。
しかしながら、ユダとペテロは大きく違っていた。ユダは後悔したが、悔い改めはなく、主のもとへ行かず、どこまでも主に頼らず自分で片をつけた。ペテロも後悔したが、主のもとにとどまり、すぐに悔い改めた。他の弟子たちも、復活の主のもとへ戻って来た。そして「ユダにサタンが入った」とあるが、悪魔は勝手に入れない。
ユダは悪魔の方を選んだ。徐々に悪魔に心を開いて受け入れて行った。主はユダを極みまで愛されたが、ユダは主を選ばなかった。自分の思い描いていた主と違ったのだろうか。主のばで3年間、御葉を聞き、主のわざも見た。御言葉も知った上で、自分が選んだまさしくユダの意志だった。ペテロは後に「身を慎み、目をさましていなさい」と。悪魔を警戒するようにと、自分の経験から語っている。目を覚まし、主に拠り頼み、祈っていよう。
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大きな失敗、小さな失敗、どうしても失敗はしてしまうが、すぐに主のもとへ行き、悔い改めよう。そのための主の十字架だ。赦して下さる。ユダは、主のもとへ行く事をしなかった。どこまでも主に頼ろう。赦されるたびに、主の愛を更に知って行く。