「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71

ある人の証しだ。若い頃から教会に行っていたが、神の愛はわかっておらず、自分にとって信仰とは「あれはダメ、これはダメ」の律法ばかりで、窮屈なだけで、喜びも平安も無かった。段々、教会へ行かなくなって、いつしか全く離れてしまった。堅苦しい戒めから解放され、自由の身になったと思った。

 

しかし社会の厳しさの中で、別のこの世の様々な縛りに直面した。仕事がうまく行かず、対人関係に苦しみ、トラブル続きでとうとう身動き取れなくなってしまった。毎日がつらく、仕事を辞めようかと思った。せっぱ詰まり、どうしてよいかわからない状況で、なぜかふと、聖書を思い出したのだ。

 

昔、読んだ聖書を取り出して読んでみた。求めていたのだと思う。放蕩息子の箇所で、まさに自分の事だと涙が溢れて仕方が無かった。初めて御言葉が頭でなく、心に入って来た。以前は、まるでわからなかった神の愛が、初めて全身にしみいった。真実の愛を知った。その時に、主に立ち返ることができた。主が喜んでいて下ることを感じた。

 

順境にある時、問題無く、うまく行っている時、神のもとへはなかなか行かない。神無しで十分やって行けて、神無しで幸せだと思えるからだ。肉は甘くない。試練が感謝だ。神のもとへ導いてくれる。多くの人があの時のあの苦しみが無ければ、神を求めていないと言う。苦しみや悲しみは、私たちを神に向かわせてくれる。それは必ず祝福へと変えられて行く。

 

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試練は、好きではないが、振り返る時、確かにそこに主が見えて、これが無かったなら、どんなに大変な事になっていただろうと思う。自分の内側を見せられ、悔い改めが与えられたり、主の助けや支えを身を持って知れる。感謝が溢れる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係