「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜい その母親につき添っていた」ルカ7:12

夫を亡くした女性が出て来る。女手一つで子どもを育て、大変な苦労だったろう。一人息子がいて、彼女にとって、その息子が唯一の生きる支え、慰め、喜び、力、生きがいであった。青年に成長し、頼もしく思い、どんなにか支えられていたであろう、その一人息子が亡くなってしまった。

 

彼女にとって最愛の息子であり、命そのものであった。その息子を失ってしまった、その心の張り裂けるような悲しみ、嘆きはいかばかりだったろう。泣いて泣いて、泣き叫んでいたであろう。その悲しみを知る町の人たちが何とか慰めようと、大勢が彼女に付き添っていた。主はこの母親を見て、かわいそうに思われた。

 

主は、その心を、痛みをご存じであった。“かわいそうに思い”は、気の毒に思う程度のものではなく、腹わたが激しく痛み、底から揺さぶられほどの強烈な思いだ。「泣かなくてもよい」と、死んだ息子を生き返らせて下さった。主の深いあわれみだった。ここでは、母親が主に助けを求めたのではない、主の方から声をかけ、一方的にいやされた。

 

「かわいそうに」の思いに突き動かされてであった。私たちにも、主の、このあわれみが向けられている。悲嘆に暮れる時、主は、腹の底から激しくかわいそうに思って下さる。ご自分の痛みとして感じ、深いあわれみをもって抱いて下さる。この主に心を向けて、心開いて行く時、主のいやしを経験して行く。

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主はご自分の痛みのように私たちの心身の痛みを深く身に引き付けてあわれんでくださる。主にありのままを祈りもう一度立ち上がれる。主との交わりを通して癒しを受け取ろう。

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係