「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」ローマ7:15

パウロが言う通りに「貪るな」と言われると、罪の性質がむくむくと出て、逆に貪りたくなるのだ。それなら律法により貪りが引き起こされる事になる。人の内に罪があるからだ。ある人が、玄関の植木鉢が余りに盗まれるので「植木鉢をとるな」と張り紙をした。すると余計に次々と盗まれ、とうとう張り紙をはずした。

 

「盗るな」と言われると、盗りたくなるのが罪の性質だ。「勉強しろ」「手伝え」と言われると反発する。肉には逆らう性質がある。救われた当初は、喜びで一杯だが、その内、信仰生活がつらくなる。窮屈で苦しくなるのだ。今まで感じなかった「罪」がわかって来る。デボーションと言われるが、祈れないし、聖書もそんなに読めない。段々と重荷になる。

 

善をしたいと思うが、実行する力が無い。頑張っても出来ないと気づいて行く。壁にぶち当たり、自分の惨めさ、無力を味わう。しかしそここそが恵みの場だ。その時にこそ、真に主の恵みと力、救いを経験する。無力を認め、ギブアップし、主にゆだねて行く時に、御霊によって歩むという事を知って行く。御霊が働かれ、一つ一つ成し遂げられて行く事を経験する。

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やればできると頑張っても、今日は出来ても明日は出来ない。陰険な罪を主の十字架で救われた恵みに感謝だ。主に思いを祈り、主の喜ばれる方を道を歩みたい。御霊の助けを祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係