「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:26

御言葉に次のようにある。「神を信ぜよ。祈って求めるものは、すでに受けたと信ぜよ、その通りになる」と。しかし次のように続く。「立って祈っている時、誰かに恨みがあるなら赦すように」と、赦しが強調されている。赦さない心は祈りを妨げ、しゃ断してしまう。私ちはしょっ中失敗する。だが神は豊かに赦し続けて下さる。罪を犯さないのでなく、罪は犯してしまうが赦されて生きている。

 

ずっと赦され続けているのだから、私たちもまた赦すべきだと。恨み憎しみがあると祈れなくなる。心にとがめがあり、主との間に隔たりができ、確信をもった祈りができない。ある人が切実な必要があり祈っていた。幾ら祈っても答えが無い。その中、ある人の仕打ちに、根深い恨みが、心の奥に巣くっている事を示された。

 

これが妨げとわかり、悔い改めて、その相手を赦した。その後、見事に祈りが答えられた。ある人は友人と言い争いになり帰宅した。自分は悪くない、相手が悪いと思う。だが平安が全く無く、心が重苦しい。御霊に探られ、示され、電話し、自分サイドの悪い態度を謝った。すると相手も、同じ事を考えていたと言い、即、和解とされた。平安が戻り、喜びが湧いた。

 

赦さない心は、祈りを遮断してしまう。答えを受け取るために、密かな恨みが、赦せない思いが潜んでいないかどうか、御霊に探って頂こう。そしてあるがままの心を祈りに持って行こう。主は取り扱い、助けて下さる。自分の心に責められなければ、大胆に御前に出ることができ、求めるものは何でも主からいただける。豊かな祝福にあずかれる。

 

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主が、誰かに恨みがある事が、祈りの障害になると言われている。沢山の証しにも接する。赦せない思いがある時、まず平安が無く、確信持った祈りができない。御前に、恨みを悔い改める時、相手は相手の問題であり、自分は平安にされる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係