「看守は・・ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」 使徒16:33

パウロは、宣教する場を求めていた。アジアで語る事を禁じられ、ビテニヤの方へ行こうとすると、それも阻止され、残りの西方面に向かった。トロアスで「マケドニアに渡って来て、私たちを助けて下さい」との幻により、導きを確信しマケドニヤに渡った。そしてピリピの町へ。

 

川岸の祈り場へ行き祈り、そこにいた女たちに宣教した。その後、占いの霊に憑かれた女奴隷から、悪霊を追い出した。すると儲ける事が出来なくなった主人たちに、訴えられ、捕らえられ、投獄に。むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁された。御霊の示し通りに従ったのに、祈ったのに、苦しみに会った。

 

こちらに落ち度は無く、ましてや宣教したいのに、投獄だ。これは一体どういう事なのか。何もどうにもならないではないか。見える所、悩みと問題、行き詰まりだが、しかし主の計画は着々と進められていた。牢獄で不平一つなく、祈り、賛美する彼らの姿は、囚人たちに驚きの証しとなった。

 

結果的に、投獄ゆえに、看守が救われ、何と全家族が救われ、ピリピの教会の核となって行った。主に間違いは無い。今は見える所、わけがわからないが、先を見据えておられる。ちゃんと従ったのに、あんなに祈ったのに「なぜ?どうして?」の状況にあるだろうか。

 

今は全体像が見えないが、主はご自身のご計画を進めておられる。主に間違いはない。「恐れないで、信じていなさい」「神を信じ、またわたしを信じなさい」、主はプランを進めておられる。信じよう。

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祈って始めたのに何故だろう、どこが間違っていたのかと不安が襲うが、不信仰に陥らず主を見ていよう。途中で起こることも必ず主のご計画の中のことだ。不安な思いを祈り主を信じていよう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係