「さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国に またききんがあった」創世記26:1

この箇所に不思議な出来事が出て来る。ききんの最中に、イサクは土地に種を蒔いたのだ。作物が生長するどころか、どんどん枯れて行く中で、種を蒔いた。普通はしないし、あり得ない事だ。どう見ても、作物が生長する状況ではない。むしろ種をだめにして、無駄にするだけだ。しかしイサクは状況ではなく、主を信じた。信仰によって種を蒔いた。

 

主を信じていなければ、蒔かなかったろう。種を失うだけなのだから。だが、常識では有り得ない事が起きた。百倍の収穫を得たのだ。「主が彼を祝福してくださった」からであった。主の祝福による事であった。それは一方的な主の祝福であった。主は祝福して下さる。 

 

少年が献げた五つのパンと二匹の魚を用いて、奇跡をし、大勢の群衆を満腹されられた。主の祝福であった。ペテロが、前夜一匹も魚が捕れずに戻った朝に、主が沖に漕ぎ出て、網を下ろすようにと。朝に魚は捕れない。湖の底深くにもぐっている。自然現象では、常識では有り得ない。しかし主の言葉に従い、網を下ろすと、驚くばかりの大漁だった。

 

有り得ない事が起きた。主の祝福であった。私たちも、見えるところではなく、信仰によって歩む時に、主に従って行動する時に、大きな祝福を経験する。イサクは種を蒔き、少年は主に献げ、ペテロは網を下ろした。今、なすべき事が、主から示されているだろうか。見えるところがどうであれ、示しに従おう。豊かな祝福を手にする事になる。

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主に頼りながらも、どこかに自分の経験を頼り、保険をかけてしまう。有り得ない事は起こらないという不信仰を主はご存じで、それでも導いてくださる。へりくだり主の栄光を見る者になりたい。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係