律法と私たちの関係が、結婚関係に例えられる。律法が夫だ。口うるさくて、朝から晩まで細かい事を要求し、チェックし、出来ないと責めて脅し立てる。しかし言っている事は正しくて、間違っていない。自分の方が、夫の細かい厳しい要求にそえないのだ。絶えず責められ続け、出来なくて、つらくて苦しくてたまらない。
その夫が死んで、新しい夫と再婚した。その夫は前夫とまるで違っていた。うるさくがなり立て、一方的に要求だけするのではなく、何と一緒に助けてくれるのだ。愛で包んでくれて、すべてに配慮してくれ、温かい。いつまでも一緒にいたい相手だ。前夫が律法で、再婚した夫がキリストだ。よく知られている例えだ。
前夫から家事のリストが与えられ、うまく出来ずに、いつも叱られ、びくびく萎縮し、苦しみの中にいた妻が、夫の死後、再婚した。家事をしていたある日、前夫のリストを見つけた。それをチェックすると、何と今は全部出来ていた。それは強制でなく、深い夫の愛に応えたくて、夫を愛するゆえに、自発的に喜んで出来ていたのだ。
律法は要求するだけだ。私たちには、それを実行する力がない。律法はその力を与える事が出来ない。しかし、主は私たちを助けて、一緒に遂げて下さり、その力を下さる。そして、その動機を「ねばならない」から、自発的に「したい」に変えて下さる。恵みの中に入れて下さる。
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やらなければと思っても要求に応えることができない。外側だけ出来たふりをするだけだ。主は恵みに恵みを重ねそこから助け出してくださった。主に愛されている。主のご愛に応えていきたい。