「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」詩篇36:9

主は、エデンの園で、沢山ある木の中から、一つだけ善悪の知識の木からは取って食べてはならないと命じておられた。必ず死ぬと。しかしアダムとエバは、悪魔にそそのかされ、「目が開け、神のようになり、善悪を知るように」なりたくて、善悪の知識の木の実を食べた。その結果、目が開かれ、自分たちが裸である事を知った。

 

今まで主だけを見ていたが、自分で自分を見るようになった。その見えるようになった目で、自分を見ると、裸だった。だからいちじくの葉で腰おおいを作って隠した。ありのままの自分の姿を隠し、アダムとエバの二人だけなのに、互いに対して隠す事になった。

 

罪が入ったので、神との関係が遮断され、自分だけが見えて、神が見えなくなった。罪の結果、今まで喜びと平安の中で、全く知らなかった「恐れ」が入って来た。主の御顔を避け、主から隠れるようになった。主から離れ、自分で善悪を判断し、自分の力で生きる事となった。つまり自分が神になって生きる性質が、罪の結果生じた。

 

悪魔は、美しさの極み天使の長だったが、神のようになろうとして、落とされ悪魔となった。自己啓発は、神のようになろうと、自分から始まり、自分によって成り、自分に至る。すべて自分で、自己完結だ。自分で自分を探るなら、ますます暗闇に陥ってしまう。

 

「神よ。私を探り、私の心を知り、思い煩いを知って下さい」と神に探って頂く必要がある。御言葉が鏡であり、御言葉により自分の真の姿が照らされる。そしてキリストのかたちへと造り変えて行って下さる。

------------

主を信じていても、自分を見て世の中を見て、そしてもやもやと主を見てしまう。真の光は自分の内にはなく、へりくだり主に近づき求めていこう。主は溢れるばかりに注いでくださる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係