「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 という一語をもって全うされるのです。」ガラテヤ5:14

人類愛、全世界を愛するのは簡単だ。抽象的、観念的な頭の中だけの愛なら、幾らでも愛せる。全人類は愛せるが、目の前の難しい一人を愛する事ができない。どれだけ頑張っても愛せない。愛せないというより、憎む相手を決して愛したくない自分を知る。頑固な強い自我に阻まれる。

 

幾ら頑張っても愛せないので、まずその事を主の御前に認めることだ。ある人が、職場に、どうしても嫌な相手がいた。心は悶々とする。こんなにつらいなら、職場を辞めようかと思うが、この場は逃れても次の職場に、必ず別の「あいつ」がいる。逃げる事はすまいと思った。しかし、相手を「愛せるように」と幾ら祈っても、祈りが聞かれない。

 

ある時、祈っていて自分の本音に気づかされた。「決して愛したくなどない」のだと。自らの本音を主に告白した。その時から、祈りが聞かれる事を経験した。急転直下愛せたわけではないが、一つ一つと具体的になすべき事を示され、それに主の助けのもと従って行くと、段々と自分が変えられて行った。

 

すると、不思議に感情も少しずつ変えられて行った。どうしてあんなに嫌だったのだろうと、思えるまでになった。愛と好きとは違う。御言葉は愛せよであって、好きになれとは全く言っていない。私たちは感情はコントロールできない。しかし、意志はコントロールできるように造られている。

 

意志で愛すること、つまり感情は横に置いて、行為はできる。「決して愛したくない」と、自分に愛の無い事を、御前で認めているので、偽善にならない。意志で行動して行く時に、感情は後からついて来る。

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ひとこと言葉を交わすと心が変わっていける。愛したいと意思を向け行動できるように祈ろう。具体的に行動しなければ、自分がいかに愛せないかさえわからない。御心にそって歩みたい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係