「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」 エレミヤ33:3

ある人が、多忙な日々を過ごしていた。早朝出勤の深夜帰宅で、次々とこなさなければならない業務に追われ、心身クタクタになり、少しずつ、主の事が後回しになって行った。その内、かろうじて確保していた祈りの時間も失せて行った。これではいけないと思いながらも、目の前の状況に流されていた。

 

段々自分の思い、自分の力と判断で歩むようになり、急いで読む御言葉も字面を追うだけで、心に入って来なかった。悪循環になり、ますますイライラ、ピリピリして、思い通りにならない事で、周囲の人を裁いた。仕事も更に忙しく、気持ちに余裕がなく、心が重くてたまらなかった。余りに苦しくなり、聖書を開いた。しかし、文字を追うばかりで、全く入って来ない。

 

祈ろうとしても、心が集中できず、壁に向かっているようだった。どうにもならず「助けて下さい!」とうめくように祈った。心重く、渇いて、次の日曜に礼拝に行った。その時突然、十字架の賛美の歌詞が、心にしみ入り、しみ渡り、涙が出た。何もかも捨てられた主、十字架の死にまで従われた主、主のその犠牲愛、真実が迫った。

 

乾ききったスポンジが水を吸い込むように、心にしみて、メッセージに心が溶かされ満たされて行った。真実なる主は、苦しみからの叫びだった、あの小さなうめきの祈りを確かに聞かれたのだ。その祈りに答えて下さった。どんな小さな祈りも聞かれている。主のもとに行きあるがままを告げよう。

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忙しいとつい目の前に迫ってくるものを優先し、自分の感情が全てになってしまう。すぐに迷子になる者だ。平安が無くなり気づけることは主のあわれみだ。主は昨日も今日も変わらず祈りを聞いてくださる。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係