「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」イザヤ57:15

ある人が神学校を出て、若くして牧師となり、主のために意気揚々と、地方の小さな教会へ赴任した。その後の歩みは悲惨で、こんなはずでは無かった。閉鎖的な、よそ者を受け付けない中、働きは思うように行かず、数年で宣教に挫折した。思い描いたものとかけ離れていた。少人数なのに、群れを牧する事ができない。

 

皆、様々な思いがあり、衝突し、問題に次ぐ問題で、更にこじれて、一致がとれない。自信は見事に打ち砕かれた。まとめて行く事も出来ない、自らの無力さに打ちのめされた。とうとう行き詰まってしまい、落胆と脱力感におおわれ、牧師を辞めようと思った。今までの人生で経験した事のない苦しみの中で、もうだめだと思った。万事休すだと。

 

しかしそのどん底で、祈っていた中で、主に出会った。「神の賜物と召命とは変わることがない」。自分の力、知恵、方法で、突き進んでいた自分の姿を見せられた。聖書知識を持ち、自分には出来ると思っていた。その高慢を砕かれた。無力を思い知らされた時、主の愛のふところに抱かれている自分を見せられた。

 

自分が自分を支えるのでなく、主の愛が自分を支えていた事を知った。自分はどうであろうと、全く変わらない愛で愛されている事を知った。砕きは神の愛だ。自分で動き回っている間は、主を脇に押しやっていた。無力になり、初めて主がわかった。

 

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自分で、自分の力で懸命に走ってしまう。しかし自分の思うようにならない事で、主が立ちはだかって下さる。思い通りにならない事で砕かれ、練られ、主のかたちへと造り変えられて行く。無力を知る事が大きな祝福だ。そこでこそ真に主に出会えるからだ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係