「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15

二人の弟子たちは、かたわらを歩かれる主がわからなかった。それは目がさえぎられていたからとある。御言葉は、主イエスだとわからなかったと言っている。なぜ、わからなかったのだろう。「信じない、心の鈍い人たち」とある。不信仰が目をさえぎっていたと。

 

復活を信じない彼らは、主が死んでしまったとの、絶望と深い落胆の中にあった。悲しみもあった。私たちも失望している時は、主が見えない。「失望」とは、主を見限った不信仰だ。主を求めようとせず、主に期待しようとしない。不信仰は私達の心をふさぎ、どんどん主を見えなくする。

 

又、「自己憐憫」は、自分はかわいそうと、自分の殻にこもり、主を排除するので、ただ見えるのは自分だけだ。又、「不安」も目がさえぎられる。思い煩いに支配され、心配の山だけが見えて、主が見えない。主を締め出してしまう。「多忙」も、目の前の事柄に、心が持って行かれてしまい、主を認める事をさせない。

 

今、どうだろう。目がさえぎられていないだろうか。目の前の障害物に気づき、悔い改めよう。失望か、思い煩いか、自分の欲望か、握り締めている、主より大切なものか。それらはおおいとなり、目がおおわれてしまう。それを取り除けて頂こう。

 

主に向く時、視点が変えられ、発想が変わる。主を見るなら、希望が与えられ、信仰が生まれる。目が開かれる。今も変わらず、あなたのかたわらに主がおられる。

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すぐに自分の思いと常識に塞がれてしまうことを覚えていたい。主から目を離して心配したり落ち込んでいないか。自分の思いは置いて、主を見ていこう。約束の御言葉を握っていよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係