「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはみな、 今夜、わたしのゆえにつまずきます』」マタイ26:31

信仰人生において、私たちがつまずくのは、どんな時だろう。よく考えてみると、「自分の」期待に合わない時ではないか。どこまでも「自分の」強い思いに、そぐわない事でつまずいていないか。自分に何の関係も無い事で、人はつまずく事はない。「自分の」気持ちや「自分の」願いを、相手が受け止めてくれない時、自分の思い通りにならない時に、つまずいたと思う。

 

そして、そんな神なら捨ててしまうだろうか。自分の願いが叶えられないなら、必要無い。偶像ならそうだろう。次々と拝む対象を取り替えて行く。当時の、主の周辺にいる人々は、主を現世的、政治的指導者、ローマ帝国をくつがえして王としての主を求めた。メシヤとして華々しく王位につく事を。しかし現実的はどうだろう。

 

ローマを倒して、王になるはずの主が、十字架にかかられるなどと、受け入れられない。人々は自分たちの思い通りでない、主を捨てた。自分の期待通りでない、願望を裏切る主が、腹立たしい。私たちもどうだろう。信仰人生が自分の期待通りに進まない、こんなはずではなく、思い通りでない、願いが叶えられない。その時につまずく。

 

その時の軸が「自分」であり、自分の気持ち、自分の思いだ。その軸を主に代えてみよう。「主のみ思いは?」「主のお心は?」主はどう思っておられるのか。主を軸におき、自分を明け渡して行く時に、今までの世界とは違い、主の世界が見えて来る。「わたしにつまずかない者は幸いです」と言われている通りに。

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決してつまずかないと突っ走っていると転んでしまう。問題が起こるとすぐに自分の良心や常識が先に来てしまう。自分にこだわり主が語る大切な御言葉を流さないよう、自分を明け渡せるよう祈りたい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係