「彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので・・」使徒16:6

信仰生活で、主の導きを求める原則は、「御言葉」と「聖霊による平安」と「環境」の3点が一つになる事だ。その中で「環境」は、状況をよく見ていよう。パウロが二度も環境により、行く手を阻まれた。アジヤでみ言葉を語る事を禁じられ、フルギヤ・ガラテヤ地方を通った。ビテニヤに行こうとしたが止められ、トロアスに下った。

 

東から来て、南も北も閉じられ、西に向かった。閉じられた理由は、結果的に主のご計画が、「ヨーロッパ宣教」にあったからだった。もし主の阻止がなければ、違った方向へ向かっていただろう。私たち一人一人にも主のご計画があり、時にストップをかけて導かれる。

 

ある思いがあるのだが、どうしても門が開かれず、状況が整わないなら、それは主の御心ではない事になる。入学試験や就職試験が不合格なら、そこは主の御心でなく、御心は別にあるという主からの答えだ。主からのストップがかかると、私たちは導きを失ったように感じ、道に迷ったような不安にかられるが、そうでなく「ノー」との「導き」だ。更にふさわしい別の道が備えられている。

 

次の導きを「待て」ばよい。しばしば止められる事により、導きをはっきりと知れる。又、門が開かれたなら、その方向に進めばよい。御心の門は、ひとりでに開く。主が開かれるからだ。自分で、何が何でもと、こじ開けるのではない。必ず目の前で、ひとりでに開かれて行く。御言葉、祈りによる平安共に、状況をよく見ていよう。

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主の導きを認めている心は平安だ。主が門を開いたり閉じたりして教えてくださるからだ。新しい門が開く。悟れるよう祈ろう。主の平安の中で待ち望もう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係