「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33

私たちは心配症だろうか。人は、多くは悲観的に傾くと言われているが、先のあの事この事が不安だろうか。目の前の事、明日や1ヶ月先の事・・不安でたまらない。大丈夫だと思おうとするのだが、不安がおさまらない。主がおられるから大丈夫、必要は必ず備えられると励まされても、どうしてもだめなのだ。

 

教理上、頭ではわかるのだが、先は見えないので、恐れと不安がどうにもならない。明日の不安に押しつぶされ、今日なすべき御心を行えない。しかし「神の国とその義とをまず第一に求めよ。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられる」。「まず」神第一にして行くなら、食物、着る物・・生活の必要は「すべて」与えられると。

 

そして心も満ち足りる。ところが不安の余りこれを逆にする。添えて与えられる「これらのもの」を第一にして、主を脇に置いて自分で走り回り、主を後回しにしてしまう。その結果、更なる思い煩いと不安に支配され、「神」も「これらのもの」もどちらも見失う。

 

肉は、自分で自分を守ろうとするので、焦って、まず自分で何とかしようとする。心に平安は無く、すべてが自分の肩にかかるので、重く苦しいばかりだ。「まず」主を仰ぎ、主に祈ろう。「心配無用」「いっさい思い煩うな」「思い煩いをいっさい神に主に委ねよ、神が心配して下さるから」。まず不安と恐れを主に告げよう。主が祈りを与え、導かれる。

 

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何かが起きると、主が飛んで、目の前の事に飲み込まれ、走り回ってしまう。頭は、あれやこれや方策を考え、忙しく巡り、不安でたまらない。まず、主を第一に、動き回らずに祈ろう。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係