「兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった」マタイ21:29

主は、二人の息子のたとえを話された。ある人に二人の息子がいた。二人の息子は、父親に「ぶどう園に行き、働け」と言われた。兄は「行きます」と立派な答えをしたが、行かなかった。弟は「行きたくない」と嫌なので拒否したが、後で悪かったと思い直し、出かけた。「どちらが父の願った通りにしたか」と、祭司長や律法学者たちに問われた。

 

彼らは「後の者です」と答えた。主を拒否している彼らであったが、そのように言った。主は、弟は、取税人や遊女のようだと言われた。彼らは律法に従わず、罪を犯していたが、ヨハネの悔い改めの教えに聞き従い、ヨハネがメシアだと示した、主を受け入れた。

 

逆に、行くと言ったが、実際は行かなかった兄は、表向きは道徳的で、立派な行いをしているように見えるが、ヨハネを拒み、その言葉を拒み、主を認めず受け入れない、それが彼らの姿であると言われた。私たちはどうだろう。信仰生活が長くなると、知識もついて、表向きはクリスチャン的な振る舞いができてしまう。

 

だが、中身はどうだろう。外側と内側が別々で、信仰と日常生活がリンクせず、それはそれ、これはこれの二重生活になっているだろうか。それなら素晴らしい御霊の喜びや平安が味わえない。肉は、自分の領域は固く守り、どこまでも自分の思い通りに生きたい。しっかりと自分を握り締めて放さない。

 

だが御霊は一歩一歩手を取って導いて下さる。自分でどうこうするのでなく、御霊の示しに素直に従おう。示された事に従う時、又、次の一歩が示される。従って行く時に、この世には無い、御霊の喜びと平安を経験し、味わって行ける。

------------

正しい答えは簡単に言えるが、主はその真意を知っておられる。やはり悪かったと御霊の示しを聞けることが恵みだ。主がどこまでも御霊を通して導いてくださる。真剣に主を求めていきたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係