「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった」マタイ25:3

十人の娘が出て来る。花嫁サイドの娘たちで、花嫁の家で、皆で、花婿が到着するのを待っていた。だが花婿は思いのほか遅くなり、夜中になった。そのため十人とも、うとうと眠ってしまった。すると突然、花婿が到着し「迎えに出よ」と叫ぶ声がした。五人は自分のともしびと一緒に、予備の油を用意していた。

 

ところが他の五人は予備を用意していなかった。もう今にも火が消えそうで、油を分けて欲しいと頼む。だが分けるほども無いので、店で買うようにと言われる。急ぎ買いに走り、戻ると、もう花婿到着後で、祝宴の戸が閉じられ、入れなかった。

 

明暗がはっきり分かれてしまった。賢い五人と愚かな五人のどこが違ったのだろう。どちらも、ともしびを持ち、どちらも、うとうと眠っていた。賢い五人は居眠りしなかったわけではない。違いは、予備の油を持っていたかどうかだった。花婿は再臨のキリスト、娘は私たち一人一人だ。油は聖霊で、その油は、上げたりもらったりが出来ないものだ。

 

少し分けて上げれば良いのにと、思ってしまいそうだが、聖霊を分け与える事など不可能だ。大切な事は、今日の生活を天につなげたものとして、天に帰り、主にまみえる事を常に踏まえて生きる事だ。それは、この世にいる間、聖霊を求め、聖霊の満たしを求めて生きる事であり、地道に日々主と交わり、主との信頼関係が培われて行く事だ。

 

それが油を準備しておくという事だ。自分と主との関係を、人からもらったり上げたりなど不可能だ。普段の生活において、そこにしっかり目を留めていよう。

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昼間はわからなくても闇がくれば油の不足ははっきりしてしまう。日々の信仰生活、いつも主に助けを受けながら、御霊の導きに敏感でいたい。信仰の油を絶やすことなく目覚めていよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係