「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」ルカ18:13

パリサイ人と取税人が、祈るために宮に来た。パリサイ人は、心の中で「他の人々のように、ゆする者、不正な者、姦淫する者でなく、ことに取税人のようでない事を」感謝した。神に感謝を献げたのだが、実際は神の御前にいない。見ていたのは「他の人々」であり「取税人」だった。

 

パリサイ人はゆすらず、不正せず、姦淫もしない、正しい人だった。だが、誰しも表向きは立派でも、心の中は罪だらけだ。あの人、この人より自分はましと、人との比較に自分を置く時、自分の罪深さが見えなくなる。逆に優越感でいっぱいになり、人を見下して行く。神の光の中でなければ、罪は見えない。光に照らされて初めて、自分の罪がわかる。

 

取税人は、自他共に認める罪人であった。わかっていて税金を搾取していた。遠く離れて立ち、目を天に向けようともしなかった。人との比較など思いも及ばず、神の御前に、ただただ自分の罪が見えて、自分の罪深さが見えるばかりだった。パリサイ人も目に入らず、自分の胸を叩いて「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈った。

 

ただ神のあわれみを求めた。この取税人の祈りは聞かれ、罪赦され義と認められて家に帰った。平安と喜びに満たされた事だろう。この箇所を知るや、今度は、自分はパリサイ人のようでない事を感謝しますと、思ってしまいそうだ。が、こんな罪人の私をあわれんでくださいと、どんな時でも祈れて、主の血潮のゆえに、耐えず御前に近づける事は何と恵みだろう。

 

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罪を犯してしまう、何も出来ない者が、ただただ主のあわれみにすがる、それを信仰だと言って下さる。何と感謝な事だろう。逆に自分は正しいと、自己正当化している時に、どうか御霊が気づかせて、導いて下さるように。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係