「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる」マルコ12:42

主が、人々が献金する様子を見ておられた。金持ちたちが、次々と大金を投げ入れていた。そこに貧しいやもめが来て、レプタ二つを入れた。極めて僅かなお金だ。しかし主は、この女性がどの金持ちよりも沢山献げたと言われた。献金の額を見られたのでは無かった。皆は有り余る中から献げたが、彼女はあるだけ全部を献げたと。

 

彼女はレプタを二つ持ち、その一つを献げても良かった。もう一つで、翌日何か買えたかも知れない。しかし彼女の主への溢れ出る感謝は、すべてを献げる行為となって表れ出た。献金とは献身だ。それは自分自身を主に献げる事であり、主は明日からの必要も与えて下さる事を信じたからだった。

 

主はその信仰を見られ、受け取られた。古い性質は、自分が第一だ。何より自分が大切で、自分を守り、自分のために確保しようとする。金持ちのように有り余る中から少しは献げるかもしれない。しかし、私たちも、古い価値観にあるかも知れない。神第一と言われるが、まず自分を守ろうとする。

 

自分で自分を守るので、どこまで行っても不安は尽きず、思い煩いに囚われ、平安がない。自分で何とかしようとするので、ますます思い煩うばかりだ。そうではなく、まず主を第一にして行く時、主がすべての必要を備えて下さるので、心は思い煩いから守られ、平安と喜びが臨む。

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いつの間にか主と一緒に多くの何かに頼って生きている。それが無くなったらと不安もついてくる。何があっても主が守ってくださると安堵した気持ちを取り戻したい。一つ一つ明け渡して行きたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係