「ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか』」ヨハネ13:6

ある時、主が夕食の席から立ち、手ぬぐいを取り、腰にまとわれ、一人一人弟子たちの足を洗い、ふき始められた。ペテロの番になると、「主が私の足を洗って下さるのですか」「決して洗わないで下さい」と、余りにも恐れ多くて拒んだ。当時のはきものは、今のサンダルのようなもので、砂ぼこりで足が汚れた。

 

彼は、自分の汚れた足を、師に洗って頂くなど、とんでもないと思ったのだ。常識ではそうだろう。しかし信仰的には違う。それなら自分の汚い部分を、決して人に見せたくないという事だ。私たちも醜い部分、弱い部分は、おおい隠したい。誰にも知られたくない。自分も見たくないし、認めたくない。

 

しかし主はそこをあらわにし、主が洗わなければ、何の関係も無くなると言われた。その部分でこそ、主との関係が深められるのだと。私たちは見栄えの良いところ、能力のあるところを見せたい。人に認められたいし、評価されたい。しかし主との関係ではそうではない。

 

弱い、醜い、汚い部分をすべて御前に広げ、明らかにする時に、赦され、いやされ、新たにされ、力を与えられ、造り変えられて行く。主は弱さをご存じで、罪を赦し、傷をいやして下さる。主に心を開き、あるがままを打ち明けて行く事だ。その事により主との関係が親密にされて行く。

 

この世の価値観は弱さは悪で、強さが善だ。しかし弱さの中にこそ主の力が臨み、主により強くされて行く。弱さや罪を認めずに、隠す事こそ、主との関係を妨げてしまう。「わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」と。汚い足を差し出して、主に洗って頂こう。

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愚痴やネガティブな思いも口に出さず主に告げて行くなら祈りだ。弱い、汚い所を主に差し出し、主の取りあつかいに委ねていこう。主に洗っていただこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係