「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、 幽霊だと思い、叫び声をあげた」マルコ6:49

弟子たちは、主に「強いて」、無理やり舟に乗せられ、湖にこぎ出た。すると深夜に激しい嵐に悩まされた。すでに湖の真ん中に出ていたので、岸にも戻れず、悪戦苦闘していた。真っ暗闇の中で厳しい状況にどんなに恐怖だったろう。その時、湖上を歩いて来られた主を、幽霊だと怯え、余りの恐怖に叫び声をあげた。

 

皆、主を見て、怯えてしまった。なぜ、主を幽霊だと思ったのだろう。「パンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたから」だとある。心が堅く閉じていたことが原因で、主を見ても、主だとわからなかった。

 

心の問題だった。なぜなら、主が湖の上を歩くなど、予想だにしない、有り得ない、考えられない事だった。「彼らの心中の驚きは非常なものであった」。弟子たちは、主は、偉い先生で、人間だとしか思っていなかった。パンのこと、五千人の給食の奇跡から、何を悟るべきだったのだろう。

 

主が、人となられた、まことの神であるということだった。しかし主が、神だとは理解できなかった。私たちもどうだろう。主を正しく認識していなければ、助けようとして来て下さっても、わからないので、受け取れない。不信仰は、信仰を押さえ込み、信仰の力を削いでしまう。主は、罪を赦すと言われる。主は赦して下さる、主には出来ると信じるなら、失敗しても悔い改める時に、喜びと平安が戻る。

 

だがもし信じなければ、赦された気がしないとばかりに、恐れと不安にさいなまれる。心はどうだろう。閉じてしまっているだろうか。心を開いて、受け取って行けるよう、祈ろう。主が心を導いて、助けて下さる。

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鈍い、閉じた心はすぐに主も素晴らしい御約束も見えなくする。自分の狭い思いをはるかに超えた存在であるの主が、波風の中を渡って来られる。主を呼び、主を見つめていよう。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係