「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4 

人間には、主から良心が与えられている。その良心は、罪を犯すなら、とがめが来る。罪責感が苦しいので、無くなって欲しい。そのために善行をする。善い行いで、プラスマイナスゼロにして、とがめを消してしまいたい。人を傷つけた時に、良心のとがめが来る。

 

その時、平安が無いので、親切な行いで穴埋めをする。これで良心のとがめをなだめて、良しとする。時々あるだろうか。しかし、これは極めて自己中心だ。自分のために、良心のとがめを無くしたいだけで、主への愛や、相手への愛などまるで無く、発想も無い。

 

ある人は犯した罪に対するとがめから、懸命に奉仕したり、献金している自分に気づいた。主のために懸命に奉仕して、罪滅ぼしをし、自らの善行で、心をなだめて、偽りの平安を得ようとする。人は気づかずに、これを繰り返している事がある。そうであれば、主の十字架は全く必要ない事で、無意味になってしまう。

 

そうでなく、主の血潮によってのみ、罪は赦され、良心はきよめられ、どんな時も恐れなく御前に行ける。ただ主の血による。どうだろう。主の血に頼っているだろうか、それとも自分のわざに頼っているだろうか。

 

自分のわざなら、キリストの死は無意味になり、いたずらに死なれたことにしてしまう。主の十字架の死を無駄にする事になる。罪を、善行で、帳消しにするのでなく、絶えず主の十字架のもとへ行こう。そして主からの真の平安を頂こう。

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主の十字架によって罪は赦された。実際の生活の中でこの確信に留まる歩みしかできない。過去の罪のとがめは来るが、その度に十字架の恵みを感謝していこう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係