「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので・・」 マルコ4:18

種蒔きのたとえで、種は、道ばた・岩地・いばらの中・良い地に落ちた。その中で、良い地に落ちた種だけが豊かに実を結んだ。いばらの中に落ちた種は、先にあったいばらが伸びて、芽をふさいでしまった。そのため実を結ばなかった。つまり「この世の心づかい」と「富の惑わし」が、御言葉をふさいでしまうと。

 

心が満たされない時に、この世を握り締め、この世にしがみついてしまう。人の愛が欲しい、人に良く見られたい、認められたい、良い人であろうとして、人にしがみつく。又、満たされない心を満たそうと、富を握り締める。富が、幸せを与え、夢を実現させてくれ、生活を保障してくれると思い込んでしまう。

 

心の満たしを求めて、ますます目に見えるものに執着する事になる。そうしていて気づかない。自分にとっては命となるものなので、手放す事など、とても出来ない。だが神はあわれんで下さる。あわれみの主だ。主は見捨てられる事なく、導かれる。そのために試練を与え、愛する者を懲らしめられる。懲らしめは主の愛だ。

 

つらく苦しい中で、初めて真剣に主を求め、自らの状態も探り考える。自分は、主以外の何に固執し、握り締めて放さないのか、普段はほとんど気づかずにいる。試練によって、主に真に向き合い、自分の姿に気づかされ、明け渡して行けるようにされる。懲らしめは、自分を主の方へ向けてくれる愛だとわかる。

----------

主と同じように目に見えるものにも満たされていたいとの思いがある。主はこの弱さをご存じで、気づきを与えてくださる。真実な御言葉を真っすぐに聞き、悟りそれを豊かに育てていきたい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係