信仰の偉人たちが、信仰の戦いを戦った。時に、その方法は、人間的には考えられないようなものだった。エジプトを出たモーセと民は、エジプト軍の追っ手が迫り、前は紅海、後ろは精鋭軍隊の追っ手だ。戦うすべも知らない民に、立ち向かう事など不可能だ。前進も後退も出来ない、どうすればよいのか。絶体絶命だ。
だが主はモーセに「前進せよ」と命じられた。これは「主の戦いであり、主が戦う」と。モーセが、エジプト軍と戦ったのではなかった。又、ヨシュアには、目の前に立ちはだかったエリコの城壁があった。難攻不落だ。主は、町の周りを回るよう命じられた。6日間城の周囲を1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。
奇抜な不思議な方法で、エリコの城壁は崩れた。人の力は全く無く、主が崩された。又、少年ダビデは、強敵巨人ゴリアテを相手に、石を打ち、倒した。全く勝ち目が無かったのに。彼らが戦いに勝利したのは、自分の方法や力でなく、主の御声を聞き、ただ主の方法に従ったゆえであった。人間的考えでは、到底あり得ない不可思議な方法だった。しかし主の命令通りに従った時に、大きな奇跡を見た。
「主があなたがたのために戦われる」まさに人間ではなく、主の戦いであった。私たちも時に理解不能な事がある。しかし主を信じて従う時、主のみわざを見せられる。窮地で導かれ、心底拠り頼む時に、みわざを見る。今、導きがあるなら、信仰により一歩踏み出そう。主が戦って下さるのだから。
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自分の経験や方法で戦おうとする思いとまず戦い、祈りたい。人知をはるかに超える主の戦いの邪魔をしていないだろうか。何もできない時が全てを委ねる好機だ。主の勝利を拝しよう。