「別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった」マタイ13:5

岩地に蒔かれるとは、岩の上に薄い土があり、表向きには御言葉を喜んで受け入れるのだが、心の底に頑ななものがある。感情的に、涙を流して御言葉を受け入れるのだが、しばらくして困難や迫害が来ると、御言葉を捨ててしまうと。根が下へと根差そうとすると、薄い土の下には岩があり、その岩にぶつかり、地中深くへと根差して行けない。

 

岩は自我であり、痛い事は負いたくないし、犠牲を払う事は避けたいし、自分にメリットの無い事にも関わりたくない。自我が勝ってしまうのだ。そのため御言葉ゆえの困難が来ると信仰を捨ててしまう。私たちもどうだろう。信仰に進もうとする時に、自分の中の固い岩にぶつかるだろうか。自我がいかに強いかを思い知らされる。思い通りに生きたいし、思いに反する事は拒んでしまい、自我が勝ってしまう。

 

ある人が、怒りが沸くのがいつも同じパタンで、自分の内側の事に気づかされた。そこから落ち込み、思い煩いに支配される。いつも同じ所だ。サタンがその弱さを突き、毎回攻撃をしかけて来るのだが、祈っていると気づきを与えられた。その底に、変わりたくない自分、自己正当化する自分、自分の強い思いがある事を。固い岩があった。

 

岩をも砕かれる主に、生き方を変えようとしない自分を認め、取り扱って頂こう。主は砕き、耕し、私たちを変えて行って下さる。実は砕きが成長のために、大きな祝福だ。愛、喜び、平安・・実を結ばせたいと願っておられる。主を新たに経験して行く事ができる。

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痛いところを避けていても、尖っている自我はいつも何かにぶつかってしまう。主と主の御言葉に向かい合う時を通されることは感謝だ。主にお任せし、砕かれて主にある自由を受けていきたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係