「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。」詩篇18:28 

教会では、祈ること、聖書を読むことをいつも勧められるので、聖書を読まなくてはと思う。そのため聖書を開くのだが、読みつつも、他の思いが次々と入って来る。その内に、あれやこれやと思いはさまよい、結局、何を読んだのかわからない。時間ばかりが過ぎて行く。背後に妨害する悪魔が働いているのだが、しかし自分の内側はどうだろう。

 

固い心がないだろうか。主に頼らずとも、自分で十分やって行けるので、そこまでの真剣さがない。又、無意識ながら、実は御言葉を聞きたくないのかも知れない。自分の計画や思いがあり、どうしても手放せない。自分の思いと異なる御心を示されても困る。自分の内に、自分を握って放さない頑ななパロがいるだろうか。

 

出エジプト記で、エジプトの王パロは、主に打たれると民を行かせると言うが、ひと息つくと頑なになり前言をひるがえした。ある人は忙しい毎日に、時間が無くて聖書が読めない、こんなに忙しくさえなければ、時間が欲しいと思っていた。しかし突然の休暇が与えられると、大喜びで行楽に飛んで行き、聖書など全く頭に無かった。

 

時間の問題でなく、自分の内側の問題である事を示され、気づかされた。頑なな固いものがあり、従えないのだと。それを祈りに持って行けた。御霊の気づきから始まり、一歩一歩と自分が変えられ、成長へと導かれて行く。

 

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成長が、自分の本当の姿の気づきから始まることが感謝だ。逆に自分の真の姿を知ることが無いなら、成長が無い事になる。自分の様々な本心を見せられる時に、砕かれるが、変えられて行く。きよめられて行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係