「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71

信仰人生には、様々な問題が起きる。主が試練を与えられる。問題や悩みは、誰でも嫌なものだ。できるだけ、痛い目に会いたくない。できれば避けて通りたいし、出来る限り順境であって欲しい。平穏な日々が、私たち皆の望みだ。しかし御言葉はそう言わない。正反対のことを言う。

 

「苦しみに会う前には、あやまちを犯した。しかし今は、あなたの言葉を守る」と。そして「苦しみに会ったことは、私にとって幸せだった。私はそれであなたのおきてを学んだ」と。一見、苦しみに会うと、過ちを犯しそうに思える。だから順境で、平穏でいたい。だが逆で、苦しみに会う前は、過ちを犯したと言っている。

 

つまり、苦しみを通ったからこそ、過ちから守られ、御言葉に従い、御言葉を守る者とされいると。それなら何と感謝な事だろう。そして、苦しみに会った事が幸せだったと言っている。私たちはどうだろう。世の培われた価値観で、苦しみに会う事は、不幸だと思っている。だが「信仰人生で一番主に近かった時は?」との問いに、多くの人々が「試練の時、苦しかった時」と答える。

 

あんなに主に近い時は無かったと。これは苦しみにより、自分では何も、どうにもならず、ひたすら主に頼り、すがる者とされるからだ。真剣に、本気で、主に向かい、切に御心を問い、自らの真の姿を照らされる。順境の時には、決して知ることのない、自分の不信仰や、エゴに気づかされる。悔い改めて、新たにされる。そして、主との交わりが深められて行く。これこそが、一番の幸いだ。

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苦しみの時に知った喜びは、決して順境では知ることはなかった。苦しくつらい状況の中にも主が共におられるとの確かな平安と静かな喜びだ。苦しみの中で主の大きな支えを受け取る。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係