「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中 から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」出エジプト7:5

主はモーセを召し出し、エジプトで苦しむ民を救う事を御心とされた。モーセを用いて様々な奇跡をされ、パロが民を出すよう仕向けられた。そのパロは様々な災害に苦しめられると、「お前たちを行かせる」と言い、災いが失せて苦難が止むと、「行かせない」と言う。又、苦難が臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。お前たちを行かせる」と言う。

 

「私は罪を犯した。祈ってくれ」と言い、一見、悔い改めに見えるが、モーセの祈りで、事がおさまると、又、心頑なに強情になる。口ではそう言うが、心の底では思ってはいない証拠だ。王であり、最高権力者だ。すべてが自分の意のままに回って来たパロにとって、主の奇跡は、単に脅しに過ぎなかった。脅しが無くなれば、何の問題も無い。だから何も変わらず、元通りだ。

 

主の奇跡のわざが、主ご自身を知り、主のご愛や慈しみ、真実を知る事にならなかった。私たちはどうだろう。試練は、ただ単に災難であり、目の前の苦しみが除かれさえすれば、良いのだろうか。それならパロと変わりがない。そうではなく「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」と。

 

様々な問題は、神が主であることを、私たちが知るために送られている。それは、主ご自身を知る時であり、又、内側が照らされる時だ。悔い改めがあり、主のご愛と慈しみを経験し、きよめられ、一段階成長の時だ。痛いけれど、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と言える。

 

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問題や出来事が色々起きるが、無駄なものは一つもなく、主の支配のもとで、主を新たに知るためである。その視点で、起きる出来事を受け止め、見て行けるよう祈ろう。一つ一つの事柄を通して、主を知れるよう、メッセージを受け取れるよう祈ろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係